勝者と敗者

某企業で仕事していたときの、相当上の方からいただいた言葉がひょんなことから出てきました。2012年と記録にあったので、5年以上前に書き留めていたものではありますが、あらためて見ても、必要なマインドだなと感じたので、紹介して忘れないようにしておきます。
勝者は、いつも答えを出そうとする。
敗者は、いつも問題点しか出さない。
 
勝者は、常に計画がある。
敗者は、常に言い訳がある。
 
勝者は言う、私にやらせて下さい。
敗者は言う、私の仕事ではありません。
 
勝者は、全ゆる問題に対して、解決策を見つけようとしている。
敗者は、全ゆる解決策に対して、問題点を見つけようとしている。
 
勝者は、バンカーよりもグリーンが目に入る。
敗者は、グリーンまわりのバンカーばかり目に入る
 
勝者は言う、難しいかも知れません、でも自分はやります。
敗者は言う、やれば出来るかも知れません、でも難しすぎます。
 
勝者は、悲観的に準備して、楽観的に対処する。
敗者は、楽観的に準備して、悲観的に対処する。
 
勝者たれ!!!!!
と、
元ネタがあるのかと調べてみたのですが、これといって誰かの言葉でもなさそうでもあり、どこから引用されたものかご存知の方がいらっしゃいましたら教えていただきたく。。。

座談会「どのような教育が『よい』教育か」@あこ

高知県の山間部に位置する土佐町が熱いわけですが、熊本大学の苫野准教授がいらして教育についての座談会を行うということで、参加してきました。

場所はNPO法人SOMAの活動拠点「あこ」。土佐町にある開かれた学びの場。プログラミング教室の際にも訪れましたし、ほかにも何度か。ちょっと早めに到着したら、近くの中学生たちが定期テスト前に勉強をする自習室的な場所にもなっていました。

苫野さんの座談会では、すべての子どもたちが自由に(生きたいように)生きられる力を育む教育の場の必要性を述べていた。お互いがお互いにとって、みんな対等であり、自由であると認め合う場というか機会というか、そういった部分の必要性。現状の学校の教室空間は同質性を生み出す場であり、異質なものに対して不寛容であることが多い。お互いがお互いを承認できる感受性を育む機会の必要性は教育の場にいる身としてとても共感する部分であった。

人間は他の動物と異なり「自由への欲望」をもっている。人間が自由に生きるには力が必要であり、お互いに承認し合えるために、それを1人1人が理解しておかないと、バランスが崩れてしまう。一部の人間が自由を独占しないよう、法がルールとして定めているのだが、力ある一部の者がルールを曲解してしまうということも起こりうるんだろうなとも感じた。

哲学という考え方にほぼ初めて触れたが、自分の分野であるサイエンス(特に物理学)でも同じような感覚で理解することができれば理解度が増すんだろうなとも感じた。言葉の意味を大事にするというか、言葉が指し示しているものの本質を理解することは、学びにおいて必要な要素なのかもしれない。ここで述べている「自由」というものも、「好き勝手」と捉えられてしまうと違った解釈になってしまう。科学において使っている言葉も、「力」とは何か、「電流」とは何か、「質量」とは何か、きちんと定義づけされたものを、自分がきちんと理解したといえるまで反芻できるのかって、これからの教育に大切なことなのかもしれない。

「言葉をきちんと理解する」ということが、自分の提供する学びの場において、大事な要素になるんだろなと。

都市部であったら、人が多すぎてあんなに近接した距離で話を聞くことができないのだが、地方だとそれができるので、あらためて高知素晴らしいなと。大祐さんと苫野さんの熱いトークを傍らで聞けて、親睦会で夜な夜な語りあえる空間がフツーに存在するわけで。そんな場を共有できて、学校教育の場に携われることに感謝をしながら、「自分の切実な問いに対する答えを探求する」場を増やしていくために、従来の教える人ではなくて、一緒に探求する人としてやっていかないとマズいぞと自分に問い直すいい機会になったなと。

プログラミングを入試にという危うさについて

2018年5月17日のニュース記事に

プログラミングなどに関する「情報科目」を国語や英語と並ぶ基礎的科目として大学入試に追加する方針を表明した。

とありました。

プログラミングの概念はとても大切な学びのあり方だとは思います。論理的に指示してモノゴトを動かすというのは、どんな仕事であっても大事な考え方ですので。ただ、そのためにはもっと基本的なことが必要ですし、エライ人たちは「プログラミングできる人=プログラム言語を巧みに扱う人」という少しプログラム教育の観点からずれちゃっているのではないかなと思ってしまいます。教育に取り入れようとしているプログラミングってそんな単純なもんじゃないです。

まず、プログラミングを使いこなすには論理的に思考できるのか必要となっています。数学的な考え方が基本的に必要です。

小学校で掛け算の順序や途中式を書くとダメとかいろいろな問題を醸し出している超算数が話題になっている小学校教育がある状況で、数学的な考え方が幼少期に身につくはずもないなと感じる次第です。

これしか答えがないということはプログラミングにはなく、いろんなアプローチで解があるので、日本の教育界が苦手としているところなので、社会全体で考えていかないといけない部分だと感じています。

次に、表現の部分。日本語ですら感情をこめずにロジカルに述べることを苦手とする教育界です。作文の書き方ですら、「思ったことを素直に書きましょう」としか指導しないのが学校の現状です。結論を述べ、その理由をかき出し、だからこそ結論に至っているのだという文章を書くことがそもそも苦手。その思考トレーニングから始めないと、プログラミングにはいきつけないのですが。。。なんだかとても簡単に入試に取り入れようとしているので、本質を外さないように教育界の中にいる人として注意していこうと思います。

なんだかよくわかんないことに振り回されるよりも、お子さんにプログラミングをとお考えの保護者の方は、お子さまにPCを1台与えて、マインクラフトを楽しくプレイさせるのが一番効果的だと思っていますが。

学ぶ姿を見せることでしか伝えられないのかもしれない

Twitterのタイムラインを眺めていたら


といった内容が流れていまして、まさにそうなんだなと。

某社で働いていた時に、新宿のオフィスへ出向くことがありました。某社の入っているビルの1階にはスターバックスが入っており、出社前にそこに立ち寄り読書をすることにしていたのですが、その時に気づいたのが、私よりも年上の方がより多くの読書や学びをしているという事実。どうやって、この方たちに追い付けというのだ。。。

ワタシの出会ってきた「凄いなぁ」と感じる方は、たいてい常に学んでいますし、部下からの意見を真摯に受け止めて、自分のモノとしていく姿勢があるんですよね。常に学んでいる状態。すでに凄いと感じるのに、どうやって追いついたらいいのでしょうかと。正攻法では決して追いつくことのできない圧倒的な何かの差を感じさせられたわけです。

そんな経験をしているからなのか、生徒たちには「学ぶことは役に立つ。というか、すごいなと思う人は、ほとんど学ぶことに真摯な人である」ということにしています。簡単に勉強ができる方法とか聞いてくる子どもがいますが、そんなものがあるならみんなやっていて、とっくに広まっているはずなので。短期的に点数が取れるかもしれないですが、長期的に見たら「じっくり、真摯に学びに向き合う」ぐらいしか方法がないんだろうなと。

学校教育における理科的な知識量は人一倍持っているのも、それは誰よりも小学校~高校までに至る理科教育について全体的に俯瞰で理解しようとフツーの人以上に取り組んできたからだと。それでも足りないと感じるので、ただひたすらに学び続けるしかないんだろうなと。せんせーも日々学んでいるので、その姿をみて学ぶことに興味をもってもらうことしかできないんだろうと、ただただ真摯に向き合うことが自分のできることなんではないかと、改めて感じております。

理科実験の事故に対して思うこと

どーも、管理人です。久しく文章を書いていませんでした。身の回りの変化に対応するのにしばらく時間がかかっていたもので。

たいてい1学期が始まるこの時期に、学校での理科実験事故のニュースが飛び交うのでそのことについて。

鉄と硫黄の化合の実験について

今月に入って、立て続けに「理科の実験中に体調不良○○名搬送」というニュースが目につきました。中学2年生の理科の教科書に載っている鉄と硫黄の化合実験でのできごとです。

Yo-suke.Mさん(@sasuyoutyan)がシェアした投稿

鉄と硫黄が反応して硫化鉄に変化するのですが、反応前と後で性質が変わっていることを調べるのが主目的の実験。鉄は磁石に引き寄せられるが硫化鉄は引き寄せられない(引き寄せられにくいが正しい表現かもしれないのですが)とか、光沢のある無しや塩酸での反応を見て、「鉄+硫黄と硫化鉄が違う性質なのですよ」ということを示したい実験なのです。で、その際、硫化鉄に塩酸を反応させると硫化水素が発生して、腐卵臭を感じ、気分が悪くなり、搬送。。。というルートをたどっているようです。

個人的には、「化合」を伝えたいところでの実験なので、別に硫化鉄にこだわらずに。。。とも思っているのですが、全国的にこの実験での事故が多発しているので、感じていることをメモしておきます。 “理科実験の事故に対して思うこと” の続きを読む