座談会「どのような教育が『よい』教育か」@あこ

高知県の山間部に位置する土佐町が熱いわけですが、熊本大学の苫野准教授がいらして教育についての座談会を行うということで、参加してきました。

場所はNPO法人SOMAの活動拠点「あこ」。土佐町にある開かれた学びの場。プログラミング教室の際にも訪れましたし、ほかにも何度か。ちょっと早めに到着したら、近くの中学生たちが定期テスト前に勉強をする自習室的な場所にもなっていました。

苫野さんの座談会では、すべての子どもたちが自由に(生きたいように)生きられる力を育む教育の場の必要性を述べていた。お互いがお互いにとって、みんな対等であり、自由であると認め合う場というか機会というか、そういった部分の必要性。現状の学校の教室空間は同質性を生み出す場であり、異質なものに対して不寛容であることが多い。お互いがお互いを承認できる感受性を育む機会の必要性は教育の場にいる身としてとても共感する部分であった。

人間は他の動物と異なり「自由への欲望」をもっている。人間が自由に生きるには力が必要であり、お互いに承認し合えるために、それを1人1人が理解しておかないと、バランスが崩れてしまう。一部の人間が自由を独占しないよう、法がルールとして定めているのだが、力ある一部の者がルールを曲解してしまうということも起こりうるんだろうなとも感じた。

哲学という考え方にほぼ初めて触れたが、自分の分野であるサイエンス(特に物理学)でも同じような感覚で理解することができれば理解度が増すんだろうなとも感じた。言葉の意味を大事にするというか、言葉が指し示しているものの本質を理解することは、学びにおいて必要な要素なのかもしれない。ここで述べている「自由」というものも、「好き勝手」と捉えられてしまうと違った解釈になってしまう。科学において使っている言葉も、「力」とは何か、「電流」とは何か、「質量」とは何か、きちんと定義づけされたものを、自分がきちんと理解したといえるまで反芻できるのかって、これからの教育に大切なことなのかもしれない。

「言葉をきちんと理解する」ということが、自分の提供する学びの場において、大事な要素になるんだろなと。

都市部であったら、人が多すぎてあんなに近接した距離で話を聞くことができないのだが、地方だとそれができるので、あらためて高知素晴らしいなと。大祐さんと苫野さんの熱いトークを傍らで聞けて、親睦会で夜な夜な語りあえる空間がフツーに存在するわけで。そんな場を共有できて、学校教育の場に携われることに感謝をしながら、「自分の切実な問いに対する答えを探求する」場を増やしていくために、従来の教える人ではなくて、一緒に探求する人としてやっていかないとマズいぞと自分に問い直すいい機会になったなと。

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