サッカーを通じた学びの機会もありではと?

ワールドカップカップサッカーのRound 1が終わり、本日よりRound 2が始まります。Round 1の最終日に日本戦がいろいろ物議を醸しだす試合をしたことで、ネット上では意見が盛り上がっています。

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こんなところから学びにも繋げたらいいのではないかと。。。

良い・悪い論をやめて、最適解な意見を考える。いろんな立場で、いろんな意見を考える。そんな機会にすると学ぶのが楽しいのかなと。

結局はとても残念な試合となり、茶番に変わった

最後の5、6分は…。両チームとも下がり、ボールを奪おうとしなかった。本当に残念な結末だよ

本当に最後の10分は恥ずかしいような展開だった。ワールドカップでは見たくなかったし、茶番だよ

などなど、否定意見。

自分たちが勝者だと胸を張っていい。

選手に少し下がるように指示するのは、決して間違った判断ではない。

など、賛成意見。

いろんな記事やら意見を見ていて感じたのは、どちらも正しい。

否定派の多くは、サッカーという試合を見ていて、とてもつまらない。他の試合結果に身をゆだねるのはナンセンスという点で述べています。

賛成派の多くは、チームが勝ちあがる戦術だった、レギュレーションを見てあの判断をしたという点で述べています。

お互いの立場が異なるので、何が正しいが正解というわけではなく、どんな立場の人間が見て、どう感じるのかという点で見れば学びにつながるのかなと。

自分が両チームとは関係のない、第三者的な立場で高いチケット料金を払って、サッカーというスポーツエンターテイメントを観戦していたとしたら、怒って当然なのかなと。自分もテレビで見ていましたが、途中でコロンビア―セネガル戦にスイッチしましたから。ゲームとしてはつまらなかった。それは間違っていない。

が、自分がチームを任された立場で、ベスト16が見えており、試合途中にFWが1名ケガによる交代を余儀なくされ、相手は積極的に1点を取りに来るわけではなく満足している状態で引き気味、攻め込んでカウンターされて失点したらアウト、カウンターされてファールで止めても警告もらうと危険、だけど現状が維持されるなら突破できる。ただし他会場で動きがあったら御破算。感情論ではなく、確率論で言えば、引くことが一番確度が高かったので、それを選ぶという判断ができるのか。もし、失敗したら。。。自分なら躊躇するかなと。

また、自国のことだから、こう冷静にいろいろ判断できるけど、他国が同じ状況で突破したら、自分はどう発言するのだろうか。など。

ハリルが監督で、同じことをやったら、同じような擁護の意見が出ているのだろうか。自国のメディアがもっと叩いたりしていなかっただろうか。とか。

いろんなことを考えるきっかけがあるのが、今の世の中。スポーツは分かりやすいから、多くの人が意見を言える。

マラドーナの神の手だって、イングランドワールドカップの決勝戦のゴールだって、たくさんの議論を巻き起こすのがワールドカップの醍醐味です。90年のワールドカップまでは、バックパスでキーパーがキャッチしてプレーが進まないことがあったんだし。98年のワールドカップではゴールデンゴール方式で延長戦がゴール決まったら打ち切りだったことだって。いろいろ議論が巻き起こり現在のサッカーが成り立っているわけで。各国クラブのサッカー事情に目を向けたら、ボスマン判決以降、世界のサッカー界は大きく変動していったって歴史もあるんだもの。

どちらが正しい・何が正しいなんてなく、次はどうしたらいいんだろうか。自分だったらどうしているだろうか。いろんな事を考えるきっかけになればいいなと。

主体的で始まらなくてもいい「学び」

いつも学びについてモヤモヤしているのですが、高校生のころからずーっと感じている学びのあり方について。

中高一貫校の学ぶ環境って…

中高一貫校に通い、そこで教えていたこともあり、そのときの自分を含めた生徒の様子ってのを思い出すと、「知ることに貪欲であり、問いに対して考えることを苦としない。」そんな人たちがいる。

詰め込み教育が…とか、答えのない問題には答えられない教育が問題だ…とか言われますが、頭に知識を詰め込みたい欲求がある人たちがいるわけで。探究心とか好奇心とか、そんなことに特化した人たち。それでもって、問題(入試問題のような)を解くことに興味がある人たち。解けなかった問題を貪欲に知ろうとする人たち。そんな集団が特に都市部の中高一貫校には確実にいてるわけで。

スポーツエリートが一流アスリートを目指すため、集まって切磋琢磨するように、勉強大好きもやしっ子も集まって脳筋を鍛えるため集まって切磋琢磨したいもの。だから、その場を求めて中学試験するのだと。知的好奇心を満たすための環境を手に入れるための努力を惜しんでいない。(中学受験がブームになっていて、なんだかわからず受験戦争に付き合うのは、しんどいだろうなとも感じてます)スポーツエリートのスポーツの楽しみ方と同じような感覚で一般人はスポーツを楽しめません。それと同様に、脳筋エリートと同じような感覚で学びを楽しもうとするとしんどいだけです。でも、学びについてはこんなことを言うとイやな感じで受け止められてしまう。

スポーツはOKで、学びがNGなのって…

トップレベルの脳筋の持ち主たちに、現在の中学教育課程って退屈です。小学校で学んだことをちょっと学術的に考え始めるだけなんで。中学校の教科書の内容は倍速ぐらいで理解してしまう。大学受験用の資料集の方が楽しく読めてしまう。授業なんかなくても自分で調べれば、中学校の指導要領なんて補えちゃう。だから、知識を得たい欲求を満たすためにどんどん学ぶ。

大学受験は範囲が決まっていないようで、決まっている。レギュレーションは国が定めているわけで。その範囲の知識は先に得てしまっておけばいい。どんどんタスクをこなして対応していけば有利になる。勉強することが、あまり苦ではない生徒たちにとっては、毎日最低2時間の勉強✕6年間ぐらいはたやすいこと。地道にタスクをこなす土台もついてくる。

スケジュールに余裕がでてくれば、得た知識を活用して、脇道にそれた学習機会も容易になる。そんな学習機会を提供するのが中高一貫校であり、脳筋エリートが好む場所なんだと感じてます。

って教育課程の大幅な先取りをしているとか、冷たい目で見られることも無くはないのですが、都市部の私立中高一貫校だとニーズがそこにあるのでとやかく言われないですし、それを目的に入学していますし。スポーツエリート校では校内で生徒同士が切磋琢磨しているのと同じように、脳筋エリートたちが隣の席の生徒と頭の使い方を切磋琢磨できる場なので。

偏差値の高いガッコウが有利なのか?

じゃあ、優秀な(いわゆる偏差値の高い)学校に行ったものだけが有利なのか。まぁ、それは否定しないです。野球やサッカーの強豪校が存在するのと同じ理由です。毎日の鍛錬の積み重ねをしている脳筋エリートたちは、やっぱり頭の回転が速いので。

でも、大学受験は範囲が決まっててルールもある試験なんだから対策方法はあるわけです。サッカーにジャイアントキリングがあるように、大相撲に番狂わせがあるように、策を練れば大学受験は誰でも戦えるもので。無計画に攻めればもちろんやられますが、ちゃんと策を練ればいいだけで。(学校ってところは、戦略を練ることは苦手なので、自ら戦略を立てた方がよさそうですけど)学びに貪欲な生徒たちと、学びの指標だけで戦おうとすると、過酷な戦いであるのは間違いないので、自分の人生の戦略をきちんと立てる必要がある時代なんだと思ってます。

知識や技能を習得するだけではなく、それをもとに「自分で考え、表現し、判断し、
実際の社会で役立てる」ことが求められる

と言われていますが、ここまで述べたように、脳筋エリートにとっては、大好物のネタです。知識量は豊富にあるので、あとは試すことを繰り返せばいいわけですから。正攻法で戦い続けると、引っくり返せないような、ある意味では怖ろしい教育改革がそこまできています。

学ぶ楽しみって必要なのか…

中学高校時代に得たものの中で一番大きいモノはなんだろうって振り返ると、
日々勉強する(知らないことを知ろうとする)習慣だと感じています。紙とペンさえあれば誰でも始められること。誰でも毎日できること。時には疑わずに没頭してみる。そんな機会は中高生の頃しかできなかったなと。学ぶことに没頭することは、なーんにも悪いことではないですし、誰でもできることですし、ある程度は身につくものだから。

勉強すること・学ぶことは近代社会において、平等に与えられた機会なわけですし。やらないのは、もったいない。そして、勉強したこと・学んだことは無駄にはならないもんです。

必要性を感じないから学ぶ意欲がわかないという意見もわかるのですが、後で意味を見出すであってもいいんじゃないかとも思います。よくわかんないけど、考えているうちに、なんだか必要だと感じるっていう形はダメなのかとも。

何か明確にやりたいことがあるなら、それに自ら没頭すればいいわけで。でも、特に何もないのであれば、グダグダ言わずに「学び」ましょう。その行動は自分を裏切らないから。