教員だってただの人

また、更新に間を空けてしまいました。

文章化をすることをしないといけないと生徒たちに言いつつも、自分が手抜きをしてしまうので、よくないなと……まずは自分で実践いたします。書く時間を決めちゃえばいいだけなんだろうけど。

イベントのコーディネーターを依頼されていました

という、保護者と教職員が気軽に話せる場をコーディネートする役割をさせてもらいました。保護者との対話が教員には少ないと感じていて、面談や懇親会の場で、話さなきゃいけないことに追われて話す機会しかなく……担任ではないと保護者と話すことないですし、でも、ホントは自由に教育について意見交換していいと思うんですよね。子どものために。

いま、教育が変わろうとしているときに、保護者の方にきちんとお話することができていない。ホントはこうしたらいいんじゃないかと思っているけど保護者の方の意見をざっくばらんに聞くことが教員側もできていない。お互いに形式的なコミュニケーションで消化不良なのではないかと感じていて、これを解消するために、少しでも歩み寄って話す場ができるのではないかということから、この会の開催となりました。

いろいろと反応が

学校の枠を越えて教職員側も何名か集まっていただけ、いろんな様子を保護者側に伝えることができたんだろうと感じています。先生側の悩みだったり、保護者サイドの問題点や教員サイドの問題点が浮き上がってきたり、解決にはならないけど、こうして共有化することで、解決の糸口をつくるキッカケにはなるんじゃないかと感じました。

担任の在り方については厳しめな意見もあって、これって誰得な制度なのかと考えさせられることも。「あたり・はずれ」となってしまうのは、担任を決めてしまうからであり、担任を決めることにより、 「あたり・はずれ」 が付きまとうことをわかっていながら学校は何故してしまうんだろうか……多様化している社会において、1人の教員が見守りきれる問題を越えているんじゃないのか。そういった事例を聞くと、考え直さないといけないのではと心から思うわけです。

多くの学校の中では「担任を持つことで教員としての成長が」という意見をチラホラ耳にします。その部分は否定しません。(自分は企業での与えられた役割で成長したことを実感していますし、学校で担任したときも生徒に成長させられた実感は強くあります)ただし、On the Job Training と言うよりも任せっきりであることも少なくないので、生徒をまとめる部分での力量が届いていない教員が、単純に「はずれ」評価になってしまうのは、教育機関としてどうなんだろうかと。保護者側も言いたくないけど「はずれ」と表現せざるを得ない場合にあったときは、どーしよーもなく無力なのだと。だから「はずれ」という表現になってしまう。教員側も保護者側もわかっているはずなのに、言えないし、歩み寄れない不思議な部分だなと。チームで多くの生徒を見守る形に変えることで、お互いが、win-winになれるんだという感触を得られました。わたしみたいな「緩衝材」的な役割が学校に必要なのでは?と保護者側から言われたことは素直にうれしかったですね。クッションとかバッファとか、そんなイメージなんだろうか。

取材もされ……

読売新聞さんから前日に取材依頼があり、地方面の「うちのセンセイ」に記事を掲載したいとのこと。子どもと社会をつなぐというフレーズで紹介していただきました。記事(文章)にしてもらうと、また違った側面から自分を見ることができますね。「生徒や保護者の悩みを聞き、一緒に学んでいける教師でありたい」は言い続けている気がします。学びの主体は生徒であり、それを支えるのが保護者であると思っているし、教員ができることは限られているのだと。その限られた中でしか動けない中で、できることを見つけることが教員として必要なんだと。教員だって、ただの人です。保護者な立場もあります。その中で、できることをすることが仕事だと。そうやって言葉にすることで、ちゃんとやるべきことが見えてくるはずだと。

“教員だってただの人” への2件の返信

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